人材流動型産業

transitionな彼が「AND回路、OR回路で仕事できるわけないじゃん。フフン」と鼻で笑ってくれた今日、彼に「(私たちが居る)医療機関の改革はなぜ進まないのか?」意見を求められた。
私たちは今、今後の経営方針というか中期計画を策定するプロジェクトに参画していて、年度末である月末の提言に向けて、頑張っている人は頑張っている。
だが、策定している自分たちにすら「これは(職員に)受け入れられないだろうな」という感触があるようなものが出来上がりつつある。
「それはなぜか?」と尋ねられたわけ。
 
考えた。ここ2週間ばかり考えていたことを整理して、更に小一時間考えた。
僕なりの意見はこうだ。

医療というのは人材流動型産業である。資格さえあれば基本的にどこの医療機関でも仕事が出来る故、常に転職という形で人材が流動している、そのようなモデルの産業のひとつである。医師不足・看護師不足が叫ばれる昨今においてそれらは加速している。
ではなぜ医療者は何をもって医療機関を選択するのだろう。医療資格を持っていればワーキングプアに陥ることはまず無いからサラリーが就職先選択に占める割合は低いであるのだし。
私が考えるに「臨床で経験と実績を重ね、良いペーパーを書くこと」や「患者さまと深くか関わり、十分な医療、手厚い心からの看護を提供する」などといった(良い意味で自分の)欲求に対する充足感を得るためだと思う。良い医療、良い看護を提供することで満足感を得ることが彼ら彼女らのしあわせなのだ。(そんな「しあわせ」を持っている彼らを羨ましく思うが、そんな話は置いておこう。)
 
ここで問題なのが、そんな「しあわせが感じられるならどこでも良く、更に転職先が数多ある」という人たちに対して、私たちが策定している経営計画のような、病院という企業体の存続を目的とした計画はなんら意味がないということだ。そんなものは彼らには実行すべき切実な問題ではないのだ。潰れたって構いやしないのだ。

戦略実行や改革には痛みを伴う。とりわけ今回の計画がもたらす痛みは何か。それは心の痛みだ。
例えば地域医療連携。「医療機関が機能分担することで効率的な医療を提供する」という合理的な理由はあるのだが、患者さまからは「無理やり転院させるつもりか」「追い出すのか」と言われることも多々あるだろう。(聞き及ぶによるとそうらしい)
ここで重要なのは、その転院はその医療者が望んだ結果ではない場合がほとんどだということだ。(地域医療連携について無知な患者さまが少なからず存在するのもあるだろうが)
医療者だって深く関わりを持ちたいと思っている。語弊を恐れず言うならば関わったら最後「自分が看取りたい」という感情を持つことは当然だと思う。しかしながら「効率的で質の良い医療を提供するために機能分担をしていかなければならない」という医療行政や病院経営の方針には逆らえない。なぜならその論理は合理的でおおよそ正しいから。ところが逆らえないだけならまだしも、自分の気持ちとは裏腹に患者さまとの最前線に出て対応するのはその人なのだ。この背反二律を抱える心の痛みや重みはそう軽いものではないと思う。
医療連携で例えたが、そのようなことが様々な局面でおきている。
 
私は思う。いくら綿密に、いくら具体的な数値目標を盛り込んだ経営計画を立てたって、上記に述べた乖離がある限り、医療者には到底受け入れてはもらえないのだろう。
目的とするものが違うのだから。
良い医療を提供するという彼ら彼女らの望みに沿った形の、もっともっと心を込めた改革案を提示しなければではないか。

そう彼に話した。
彼は「やりがい」という言葉で返してくれた。
 
そう。やりがい。
 
医療を提供するのは医療者だ。彼ら彼女らが望んでいるものは何かを把握し、やりがいを得られるようにするにはどのようにしたらいいのか、その方向付けをすることが大事なのではないか。十分な意見(要素数)が得られると仮定すれば、そこから得られる意見を重要視し、それを反映していけば(そこに経営的味付けを加えることは必須)計画は受け入れてもらえると思う。逆の視点から言えば、彼ら彼女らがしあわせになる方法であることを伝えるものでなければダメだということだ。
彼ら彼女らがしあわせになる病院にすることが短期的にも中長期的にも最も重要だ。数値目標なんてイラネ